就職活動のお話。

 相も変わらず猛暑がつづく京都です。でも、今年はちょっとマシかも。

 さて、わたしは幸いにも先日就職活動を終了することができました。改めて、周りの人々の支えがあってこその結果だと思います。関わりがあったすべての皆様に、心から感謝申し上げる次第です。

 大手が多いとされる経団連の「選考活動」の解禁が6月1日(今年は木曜日)ですから、6月の中旬、あるいはそれまでに就職活動が終了している学生は比較的順風満帆と思われがちです。しかし、経団連加盟企業でも半ば公然と3月から筆記試験や面接が行われている中、6月に入っても内定をひとつも保持していないのは非常に苦しいものがありました。

 かなり長くなりますが、ここまでたどり着いた道のりを、自分の備忘録としつつ、誰かの就職活動がより充実したものとなればと思い、ここに記録しておきます。

まずは前提となるわたしの条件を書いておきます。
大学…関西の某4年制大学
志望…メーカーの営業・管理部門全般
最終決定先…メーカーの法務部門

 

「広報活動解禁」の3月まで(インターンとか)

 経団連指針の言う「広報活動」(採用選考に関する情報の公開)が解禁となる3月までも、わたしはぼちぼち動いていました。

 前年の6月にはインターンシップが始まったことから、わたしも9月にとあるBtoB(対企業間取引)メーカーの3日間にわたるインターンに参加しました。
当初希望だった食品業界のインターンが秋にしか開催されておらず、かつ次に志望していたメーカー系も夏はほとんどなかったため、夏休みに開催される希少なメーカー系の営業インターンに参加しました。
 結局これによって、最終的な志望業界をメーカーにしぼり、3月以降に本格的な活動をすることになりました。
 また、このメーカーさんからはインターンでの活動を評価され、その後もフォローインターンとして何回かイベントに呼ばれ、選考も一部免除となりました(1次選考のグループディスカッションが免除)。

 秋頃に開催されるインターンには、学業に専念するため参加せず、代わりに2月以降に開催される1dayインターンに数社参加しました。こちらは特に採用選考に関わらないものでした。

 また2月には、学内で行われた「企業研究セミナー」(といっても事実上の会社説明会)にも参加し、一部の会社ではここでプレエントリー(会員制ページへの登録)を求められました。

「広報活動解禁」(3/1)

 この日から一斉に、マイナビリクナビなどの就職情報サイトがインターン版を改め、本格オープンするとともに、企業側の採用情報も公開されエントリーが可能になり、各企業の個別説明会の予約が始まります(実際に開催されるのは3月下旬以降が多い)。また合同説明会などもこの日から始まります。(わたしは大阪・南港のインテックス大阪で開催された合同説明会に参加しました)

 「広報活動」とは言ったものの、実際にはこの日からエントリーシートWebテストなどでの選考が始まっていきます(会場での受験を伴わない筆記試験、またグループディスカッションなどは「スクリーニング」であるとして認められています)。

 エントリーシートの〆切は早いところで3月半ばです。また、3/1の朝8時に電車内からエントリーした幾つかの会社では、個別説明会がすでに満席となっていたりします。

 つまるところ、3月から「ぼちぼち企業研究始めるか~」では遅い、ということです。遅くとも2月中までに業界や企業についてある程度調べておき、個別説明会を3月入ってすぐに押さえられるようになっておかないといけないのです。合同説明会や個別説明会では「会社の雰囲気を見に行く」「社員の人と会ってみる」というのを目的としたほうがいいかもしれません。

 あと合同説明会で満足することなく、可能であれば個別説明会には参加したほうがいいかもしれません。個別説明会では先輩社員の人が出てきて座談会をしてくれたりすることがありますので、そこで会社の雰囲気を肌で感じることができます。直感で「ここはヤバい」と思うところもあったりしました。

選考参加(応募)開始(3月中旬頃~)

 先述したように、3月の中旬ごろには個別の会社説明会と並行して、早いところのエントリーシート提出などの応募が始まります。だいたいが3月末~4月あたまぐらいに集中するので、この期間ぐらいが就職活動で忙しくなる第一波となります。日々計画を立ててエントリーシートを書いたりWebテストを受けていかなければなりません。

 わたしの場合、エントリーシートはWebから提出するものが多かったのでまだましでしたが、業界によっては手書きのところも多いようです。手書きは時間がかかりますからね……。

事実上の「面接」スタート(4月頃~)

 3月末には、早いところで面接が始まっていきます。インターンで選考を一部免除してもらったところは「特急コース」に乗っているとのことで、4月中旬には最終面接でした。

 その会社さん(経団連非加盟)は、あからさまに囲い込みを図っており、普通はその会社の採用プロセスでは行わないらしい、適性などを判断し、部署をあらかじめ指定した形での選考となりました。1人枠なので、内定を出した限りは来てもらわないと……というニュアンスのことを言われました。

 まだまだ4月中旬で、自分の可能性を絞ってしまうのは早いように感じましたので、「ほかも色々見たいと思っています」と答えたところ、1週間後に不合格通知が来ました。

 自分で言うのも変ですが、インターンなどでわたしにそれなりのコストがかけられていたと思いますので「さすがに内定が出るのでは」と思っていたのが正直なところでしたので、計算が大いに狂った瞬間でした。世の中そんなに甘くないですね。

 また、その他の経団連加盟企業でも「面談」などの名称で、リクルーター面談(大学OB・OGなどによる振り分け)がスタートします。その他にも、呼び出されて会場で行う筆記試験や面接など、経団連指針で「6月までだめ」とされていることがガンガン進んでいきます。経団連指針、全くもって形骸化してるじゃないですか

手持ちが減り、追加エントリー。そして方針転換(5月頃)

 そもそも、わたしの場合はどうもSPIと相性が良くなかったようで、筆記試験にSPIが採用されているところはことごとく悲しいお知らせが届きました。

 その他の形式の試験で、無事筆記試験を通過した企業でも、面接でどこどこ落ちていきます。自己否定をされているとまでは思いませんでしたが、このまま内定がでないのではないか、と焦りが出てきます。

 とにかくわたしがすべきことは「エントリー先を増やす」ことだったので、就職四季報をめくりながら、できるだけ希望のかなうところにエントリーをしていきます。

 すでに募集を締め切ったらしい企業がほとんどでしたが、一部の会社はこの後2次募集がスタートしました会社説明会には出来る限り参加しましたし、採用HPもそれなりに読み込んだつもりです。そして3月・4月にやったのと同じように、エントリーシートや筆記試験をこなしていきます。これらの結果通知は、おおよそ5月末でした。

 実はわたし、ここで少し方針転換をしていました。エントリー時に職種を選択することがあるのですが、それまでの「広報」「営業」の選択肢をあえて外し、「法務」を選択し始めたのです。結果的にはこれが潮目が変わるきっかけとなりました。

「第一志望」に不合格(5月末)

 5月末、「一応の第一志望」としていたところの最終面接を受けました。受かったら就職活動をやめてそこに入社するつもりでした。

 面接の通知メールには「天候に応じてクールビズでお越しください」とありました。正直そのまま従ってよいのかと思いましたが、当日は暑い日だったので、ノージャケットのクールビズスタイルで向かいました。

 そして面接スタート。最終面接なので、面接官はおそらく役員クラスです。部屋に入るやいなや「あら、薄着なんですね」。以降、面接官はわたしの話をあまり興味なさそうに聞くうえ、履修履歴にあった「国際取引法」の内容について、おおよそ法学部の授業では習わないような難解な単語を出して「これ知ってる?」と問いただします。

 これはいわゆる「圧迫面接」の一種かもしれません

 面接終了後、「これはだめだ」と思いました。2次面接まではとても丁寧な面接官であったのに、最終面接ではこれです。案の定、しばらくして不合格通知が届きました。

 いま考えれば、合格通知から面接日まで大きく日が空いたことからも、あの面接は「落とす面接」であって、おそらくわたしを通すつもりはあまりなかったのではないかと思います。結果論からすれば、「クールビズでよい」と言っておきながらそれに眉をひそめたり、圧迫面接をする会社に入社しなくてよかったと思いますが。

 さて、問題はそこからです。グループディスカッションの結果待ちをしているところ以外、筆記試験を通過した企業がないのです。しかもその待っているところも、おおよそ入るのが難しいと思われました。

 手持ちゼロ、最も恐れた局面がそこにあったのです

2次募集の選考がスタート(6月~)

 1次での選考がおおかた終了した大企業のうち一部では、このタイミングで2次募集が始まります。わたしもエントリー先を増やし、二次募集にもいくつか応募しました。

 筆記試験が通過した東京の企業の面接に行くと、法務部門の希望を出していたこともあって、その方向で話を進めたい、というお話をいただくことができました(この面接のために京都から東京まで向かったのですが、30分の面接の予定が20分で終わったものですから、不合格になったとばかり思っていました)。

 またある日、電車に乗っていたところ電話がかかってきました。市外局番から察するに、東海地方からの電話です。かけ直したところ、説明会の予約だけをして選考にはまだ参加していない会社からで「ぜひ説明会に来て、法務で応募して欲しい」とのことでした。

 そして、このあたりの日々は非常に多忙でした。2次募集の場合、筆記試験通過から面接まで2~3日、しかも会場は東京のみ、という例が非常に多く、スケジュール調整に苦労しました。日時を向こうが指定することもあり(わたしの場合、多くの企業は複数日程から選択できました)、先約と被ってしまい、指定された日時の変更を申し出たところ、そのまま落とされる、なんていうこともありました

まさかの就職活動終了(6月中旬)

 2次募集の企業群の選考が進む中、唯一1次募集で生き残っていた会社がありました。その会社は競争率が高く、おおよそ合格するのは難しいだろうと思っていました。

 しかも、直感で希望を出していたのが「法務」であり、わずか1枠という狭き門でした。大学院の方がいたら学部生はかないません。それゆえに、手持ちにカウントすることができませんでした。そしてその企業は面接を6月以降に開始する、極めて珍しい会社でした。

 わたしはその狭き門に、どういうわけか、合格しました。不合格になった「一応の第一志望」を超えて、自分が求めている要件をほぼすべてクリアする、「本命中の本命」でしたので、もちろん準備は入念にしていきました。でも、未だに合格できたのは奇跡なのではないかと思っています。

 こうして、わたしの就職活動は、なんとかかんとか終了したのです。

戦績

プレエントリー(マイページ登録):45社
 うち選考参加:22社
  うちエントリーシート・筆記試験通過(面接・グループディスカッション参加):11社
   うち内定:1社(選考途中辞退3社)

あとから見れば、選考に参加した会社は意外と少なかったな、と思います。

就職活動を終えた感想

 正直にいいますと、もう二度と就職活動はしたくないです。これほどまでに、自分の将来に不安を抱き、誰かに振り回され、ストレスを抱えた苦しい日々を送るのはまっぴらごめんです。ゴールデンウィークにひいた風邪はこじれにこじれ、内定が出るまで治りませんでした。

 これから社会に出ればもっと苦しいことがある、というのは理解しているつもりです。しかしながら、来年の自分がどうなっているかわからない、という状況下で、慇懃無礼な不合格通知を受け取ってばかりいれば、その渦中の当人は滅入ってしまいます。特に就職活動をしている学生の周りの方は、どうかそのことは理解してあげてほしいと思います。

 それから、先ほども書いた通り、経団連の採用活動に関する指針は、まったくもって形骸化しています。「説明会」ではなく「企業研究セミナー」、「面接」ではなく「面談」など、手を変え品を変え指針を逸脱した行為を行っています。

経団連:2018年入社対象の「採用選考に関する指針」について (2016-09-20)

 一人でも多くの学生を他社に取られないうちに確保したい、という企業の気持ちは分かりますし、わたしがここで批判をしてもしょうがないと思っているのですが、これはなんとかしてほしいなあと思ったりします。まあ、かつての「就職協定」の時代から進歩なく同じことを繰り返しているのですから、しょうがないです。これからの就職活動をする学生も、自衛をする他ありません。

おまけ(サイレントお祈り)

 企業が「不採用通知」を行わないまま不合格とする行為を「サイレントお祈り」といいます(「お祈り」は、不採用通知の連絡によくある「これからの活躍をお祈りします」などの文面から来ています)。

 この理由としては、不合格通知を送らないことで後々人数が減った時に補充できる……という企業側の思惑があるとも聞きますが、学生側からするとうれしいことではありません。

 わたしは結果的に18社に「お祈り」されましたが、このうち6社がサイレントお祈り、あるいはそれに準ずる(選考〆切から1か月あまりあとの不採用連絡など)対応でした。

 その中には、ふつうにスーパーで商品を売っているような食品会社も含まれます。サイレントお祈りをされたこと自体は、今となってはどうでもいいですが、これからの消費者としての心理としては、そこの商品は買わないでおこう、となってしまいます。

 企業様におかれましては、サイレントお祈りや圧迫面接は、それを受けた学生が、以後いち消費者としての心象を著しく悪くするということをご承知おきいただければと思います。おそらくそれは、会社側が思っている以上のインパクトだと思います。未来の消費者・顧客を失っていっているということに気づくことができないのであれば、それまでだと思いますが。

2月23日にしか手に入らない超レアお札? 京都・醍醐寺の盗難よけ「五大力尊御影」とは?

 「スピリチュアルやね」

 これは、若者のあいだで流行し、昨年は作品内のユニットが紅白歌合戦にも出場を果たしたアニメ「ラブライブ!」の、あるキャラクターの口癖とされるせりふである。世間はここのところ、「スピリチュアルブーム」「パワースポットブーム」に沸いている。京都にも「スピリチュアルなパワースポット」といわれるところがたくさんあり、それらを巡るツアーも日々大賑わいとのことである。たしかに京都の寺社仏閣では、いつ見ても多くの人々がお守りやお札などを熱心に授かっている風景を見ることができる。

 しかし、京都にある「醍醐寺」には、年に一日のみ、災難よけのお札を授ける行事がある。毎年2月23日に「五大力さん」として京都の人々に親しまれる「五大力尊仁王会」である。

 醍醐寺平安時代、聖宝が山頂に観音を安置したことからその歴史が始まる。また907年には醍醐天皇勅願寺となり、規模の大きい寺になった(そもそも醍醐天皇の名は、醍醐寺からついたものであるらしい)。これは、醍醐寺が京から見て辰巳の方角(南東方向)に存在することから、北東方向の延暦寺、北西方向の愛宕神社神護寺、南東方向の岩清水八幡宮とともに、京の都、ひいては国を守り発展させていくために指定されたものとされる。醍醐寺には国宝級の文化財がたくさんあるが、そのひとつが五重塔である。五重塔は952年の竣工で、その後の幾度かの山火事や応仁の乱の兵火を免れた、唯一の創建当初の建築物である。今年で竣工から1064年(!)、京都市内最古の建築物だそうだ。また金堂は2度焼失しているが、安土桃山年間の「秀吉の花見」に際して再建されることになり、新築が間に合わないため紀州から移築されたものである。またその奥には観音堂がある。ここは西国三十三ヶ所の11番札所ともなっており、多くの人々が巡礼に訪れていた。


五重塔。現存する唯一の創立当時の建築物。竣工は952年。京都市で最古の建物である。

 ところで、五大力尊仁王会といえば、金堂前で行われる「餅上げ力奉納」が有名である。2月23日になると、毎年ニュースや新聞に紹介されるほど有名な行事で、男性が150kg、女性が90kgの鏡餅を抱え、その時間を競い、その力を奉納する。

……だが、京都の人々はこの御影を、主に次のような目的で授かりに行く。「泥棒・盗難よけ」である。先述の「災難よけ」よりその加護の内容が具体的になっており、京都の人々はこの御影をひとつだけではなく複数授かり、玄関だけではなく勝手口、駐車場にも飾るという。ではなぜ「泥棒よけ」になるのだろうか。それを調べるべくまずはインターネットで検索をするも、答えを見つけることができなかった。

 そこで、実際に醍醐寺で、お坊さんにその所以を聞いてみた。てっきり、寺が今まで一度も盗難にあったことがない、などがその理由だと思っていたが、意外な答えが返ってきた。都市伝説によるものだというのだ。どの世にも泥棒というものはかならずいるが、この「五大力尊御影」がある家に泥棒が入っても、何も盗らずに帰っていく例が非常に多いらしい。それは実際に捜査にあたる警察が驚くほどであり、それから話が市民に広まり、この御影を玄関などに飾ることによって盗難よけとなるとされ始めたとのことである。ちなみに、今でもその傾向はあるようで、私が話を聞いた僧侶も警察職員から驚いたように話されたという。


写真右が「五大力尊御影」。左は祇園祭のちまき。

 また、この話を聞きつけ、今では大阪の商人たちもこの日に多く醍醐寺に駆けつけ、御影を求めるという(ちょうど大阪から見ると、醍醐寺の位置は鬼門に当たるらしい)。特に金融関係の人が多く、機密情報の書類を送る際に、ダンボールの蓋の裏に御影を貼る者すらいるそうだ。国家の安泰を祈る醍醐寺が、ひょんな都市伝説から一般市民にも広く信仰されるようになった、面白い例ということができるのではないだろうか。

 考えてみると、京都の人々は観光客がいう「観光地」や「パワースポット」を、生活の一部としているのではないだろうか。引っ越しをするときや子供に命名するときには晴明神社へ出かけて占いを受け、台所には火除けのお札(愛宕さん)、玄関には災難・泥棒よけの五大力さんのお札。学業成就を祈り北野天満宮に出かけ、商売繁盛を祈願に伏見稲荷へ。また、祇園祭は単なるお祭りではなく、無病息災を祈るものである。

 観光スポットで有名な寺や神社、それから行事も、それらが観光客向けのみのためにあるのではなく、必ず地元の人々の生活や信仰がそこにある。それが、他とは少し色の違う街、京都ではなかろうか。

[参考文献]
○山本四郎『京都府の歴史散歩 中』(山川出版社、1995年)
醍醐寺ホームページ「略縁起」「信仰と行事」「醍醐寺の寺宝・文化財
 https://www.daigoji.or.jp/ (2016/06/19閲覧)
醍醐寺パンフレット

 

【お知らせ】
このノートの内容は、筆者が出席していた大学講義においてレポート課題として提出したもの(2016年7月締切)を一部書き換えた上で掲載しています。
また、noteにも同じ記事を掲載しています。